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【小説:解離性同一性障害 多重人格の彼女】ひのはな(18)

ひまわり

「私、花火がまあるく観えない場所を知っているんです。」

「……、どこ?」

たっぷりと時間を掛けてカシスオレンジを飲み、そしてしゃべりだす。

「花火の内側。」

「内側?」

僕は顔をしかめながら夏美を見る。打ち上げられる花火がその横顔を定期的に照らし、赤や緑に表情を変える。僕が口を開く。

「でも、危険だから、誰も花火の内側からは観れないよ。」

「そうなんです。花火の別な姿を観れるのは花火そのものだけ。でも、時にそれがアイデンティティーだったりするんです。」

「アイデンティティー?」

「人間の話ですよ。アイデンティティー。つまり自己同一性。自分の存在価値をそれによって認められること。」

「なんだよそれ。」

「多くの場合、それは可視的要素では判別できないんです。」

「え?」

大きな花火が夜空に一つ咲く。僕はそちらに目を向ける。夏美はうつむく。

「見た目だけでは判別出来ないんです。だって中身を知っているのは、きっと本人だけだから。」

夜空に、大きな向日葵が咲く。そして夏美がうつむいて話している間に、その向日葵はゆらゆらとその形を失い、やがて光りの粒は消えていく。それを観て、絶望感と共に、僕の全身から頭に向かって血液が集中する。しかし夏美は続ける。

「あの火事で、もしも私が生き残っていたら、大輔さんは……。」

「いい加減にしろよ!もう春美ちゃんの真似ごとはやめろ!!」

僕は感情をコントロール出来ぬまま立ち上がり、夏美に向かってぶちまける。夏美は驚いてこちらに目を向ける。

「花火が……、向日葵が……。終わっちまったじゃねえか!!」

夏美は状況を理解出来ない様子で、ただ僕を見て口をつぐんでいる。

「なんで俺がこの花火に夏美を誘ったか知ってるよな?おまえに世界一大きな向日葵を観て欲しいから、向日葵みたいに光に向かって生きて欲しいから、向日葵を観て、夏美に元気になって欲しいから……。」

僕は怒鳴っているうちに目頭が熱くなってくる。

「だけどよ、ここにいるのは春美ちゃんのことばっかり気にして自分に自信を持てない意気地なしじゃねえか!何がアイデンティティーだ!春美ちゃんはもう死んだんだ。受け入れろ!受け入れなきゃ、人は強くも優しくもなれないんだ。おまえのやってることは、春美ちゃんも俺も喜ばない、ただの自己満足だよ!!」

そこまで言い切って、自分の息が切れていることに気付く。大きく肩が上下している。それを見つめながら、夏美は、

「ごめん。」

と僕を見つめながらつぶやく。

「なあ夏美。俺が好きなのは、春美ちゃんじゃない、夏美なんだ。顔が同じだって、俺は夏美が好きなんだ。もっと自分に自信を持ってくれ。」

「うん、ありがと。ごめんね。春美はもう、やめるから……。」

と言って夏美はうなだれる。周囲の目に気付き、興奮している自分を客観視すると恥ずかしくなり、僕は夏美の隣に腰掛ける。

「ごめん。俺も、ちょっと言い過ぎた。どうしても、夏美に大きな向日葵を観て欲しくて……。」

そして二人とも言葉を失う。花火が終わったことで、人の流れは駅の方に向かって動き出す。僕はたまにビールを口にしながら、それをただ見つめている。夏美はずっとうつむいている。最低な花火大会だと思う。流れの悪い砂時計のような時が流れる。口を開いたのは夏美だ。

「もう、ごめんってば!私、春美に少しでも楽しんで欲しかったの。でももうしないから、機嫌直して。ね?」

「え、うん。」

自分でもさっさとこの空気を何とかしなくてはいけないと思っているが、なかなか感情を回復できない。

「こんな可愛い彼女連れて、そんな湿っぽい顔はやめてよ。みんな見てるじゃない。それとも私のこと嫌いになっちゃったの?」

「いや、そうじゃないけど。」

「もー、情けない男。わかった。じゃあ、これならどう?」

と言って夏美は僕の正面に移動してしゃがみこみ、僕の顔を両手で押さえつけると思い切りキスをしてくる。僕の手からビールの入ったカップが放され、水分を含んだ音と共に中身があふれ出る。鼻の奥で、かすかにカシスとオレンジの香気が漂う。わずかに開けられた視界で、丁寧に閉じられた夏美のまぶたを捉える。頭のてっぺんから足のつま先まで、

ぼうっとした脱力感に襲われ、僕はそこに仰向けに倒れる。そんな僕に絡まるように夏美の柔らかな体が覆いかぶさってくる。しばらくそれに身を任せる。夏美はゆっくりと顔をあげると、馬乗りになった状態から僕に向かって平手を放ってくる。

「いってー!」

「いつまでそうやってんの!情けない。」

僕はむっくりと状態を起こし、そう言い放ってくる夏美を抱きしめ、

「ああ、幸せ。こういうの元気出ちゃうよ。」

と言う。夏美はその場でじたばたと体を動かして僕を突き放すと、

「最低。」

と言って立ち上がり、浴衣の着崩れを直しながら駅に向かって歩き出す。

「おい、待ってくれよ。」

と言いながら僕はこぼれたビールのカップを手に取り、まさに骨抜きと言った状態で夏美を追いかける。

「知らない!」

と言いながら逃げるように走っていく。顔を見なくとも、その背中で夏美が笑っていることを確信する。

駅で夏美と別れ僕は自宅に帰ると、すぐにシャワーを浴びる。汗を洗い流し終えると僕はキッチンに向かい、冷凍庫から氷を取り出しグラスに入れ、そこにウイスキーを注ぐ。一口飲んだ後でグラスをテーブルまで持って行き置くと、代わりにリモコンを取りテレビをつける。調度、今日行った花火大会のハイライトを放送しているのでリモコンを置く。名物の花火を幾つか紹介した後で、クライマックスの向日葵が咲く。当然だがさっき見たのとまったく同じだ。そこまで観ると、なんとなく気分が乗らないのでテレビを消し、タバコに火をつける。ゆらゆらと煙を排出するタバコの先端をみつめながら、夏美は大丈夫なのだろうかと思う。そしてだいぶ時間は遅いがメールを一通送っておこうと思い携帯に手を伸ばす。携帯画面にメールのマークがある。どうやら夏美の方が先にメールをしてきているようだ。僕は携帯を操作し、メールを確認する。送信者はやはり夏美だ。

『今日は楽しかったです。またご一緒しましょう。』

と書いてある。この表現は……。

春美だ。

脳が拒絶反応を起こし、目眩がする。倦怠感が全身を襲い、その後で体が小刻みに震えだす。舌の奥の方に違和感を覚え、唾液の分泌量が増す。トイレにかけ込み口を開くと同時に喉の奥から琥珀色の液体が噴射する。逆流したウイスキーが鼻に侵入し尋常でない激痛に襲われる。胃酸によって食道が熱くなり、喉が焼ける。それでも吐き気は止まず、何度も胃が持ち上がってくる。胃液を出し尽くすと今度はその都度不快な音と共にげっぷが出る。呼吸が上手く出来ず涙がにじみ出てくる。便器を抱えたまましばらく動けない。数分で胃の震えが収まり洗面所で口をゆすぐ。鏡をみると、無呼吸状態が続いたせいで、目の周りが赤くただれている。

何度か深呼吸をし、呼吸を落ち着かせると、部屋に戻り夏美に電話をする。一向に電話に出ない。三度掛け直して諦める。メールがあったのは30分程前だ。もう寝たのかもしれない。僕はなるべく冷静に捉えようとするが上手く行かず、椅子に座っていられなくなり、携帯を持ったまま部屋の中を右往左往する。夏美は約束を果たさずにまだ春美の真似ごとを続けようというのか、それともいよいよ春美の人格が形成されてしまったのか、悲憤と危惧の念がないまぜになる。原因不明の涙が流れる。『ダメだ、俺は夏美を信じてやらなきゃいけないんだ。』と、言い聞かせる。どんどん自分の心が追い込まれていくのを感じる。徐々に意識が薄れていき、とうとう視界が真っ白になる。

次の日、携帯電話の着信音で目覚める。カラカラに乾いた口内で巧みに舌を運動させ唾液を分泌させる。やっとの思いでそれを飲みこむと喉が痛む。枕元で鳴り続ける携帯を取り画面をみる。夏美だ。一瞬緊張が走るが、通話ボタンを押し耳にあてる。

「もしもーし!おはよー。」

元気な夏美の声が聞こえる。

「おはよう。」

「なんか昨日の夜中にたくさん着信あったみたいだけど、大丈夫?ごめん、昨日は疲れてて早く寝ちゃったんだよね。声でも聞きたくなったの?」

「いや、そうじゃなくて。」

「そうじゃないってなによ。そんなに真っ向から否定しなくてもいいじゃない。」

「違うんだ。あのさ……、昨日の夜のメール、あれってどういう意味?」

「昨日のメール?なにそれ?」

「覚えてないのか?送信履歴に残ってるだろ。」

「はぁ?待って、ちょっと確認してみる。」

そういって夏美は電話をそのままにしてメールを確認する。カチカチと携帯を操作する音が聞こえる。しばらくして夏美が低い声でしゃべりだす。

「ごめん。」

「ごめんって、覚えてないのか?」

「……、うん。昨日疲れてて、日記を書いてそのまま寝ちゃったから、たぶん寝ぼけてたんだと思う。」

「寝ぼけてたって、無意識で春美ちゃんの真似ごとをしたってこと?」

「……、ごめん。」

「いや、わざとじゃないなら、しかたないよ。昨日もいろいろあったから、ちょっと心配しただけだから。」

「うん。もう、大丈夫だから。心配しないで。」

僕は言葉につまる。しかしすぐに口を開く。

「なあ夏美。俺、おまえのこと好きだし、本当に、信じてるから。」

「……、うん、ありがと。私も。」

「だからさ、もっと自分に自信を持てよ?」

「うん、大丈夫。ごめん。」

「俺さ、もっと夏美のそばにいたい。次、いつ会えるかな?」

「……今、部屋探ししてるの。あんまりおばさんの所にお世話になってても申し訳ないし。なるべく早く決めるから、そしたら泊まりに来る?」

「え?泊まり?」

「嫌なら別にいいんだけど。」

「嫌じゃない!絶対に嫌じゃない。夏美、早く部屋をみつけろよ。」

「ちょっとー、なにその豹変ぶり。」

「今日には決まりそうか?」

「はぁ?そんなわけないじゃん。でも早く決まると思う。大体の目星はつけてるし。荷物もないから引越しも自分で出来るしね。家電も買いに行かなきゃ。」

「じゃあ、今日俺の部屋に泊まるか?」

「話聞いてる?おばさんが心配するから、もう少し待っててよ。」

「わかった。首を長くして待ってる。」

「はいはい。じゃあ、電話切るね。また連絡する。」

「オッケー。」

と言って電話を切る。少し気分が晴れるが、まだしっくりと来ないものが思考を支配している。口から嫌な臭いがするので、うがいをしようと重い体を起こす。キッチンに行き、グラスを手にとって気付く。昨日、テーブルの上に出しっぱなしにしていたはずのグラスが、綺麗に洗われ食器棚に片付けられている。同じように灰皿も片付いている。習慣的にどんなに酔っていても洗い物をして眠る性格だが、灰皿は吸殻を捨てるだけでヤニがこびりついたまま放って置く。その灰皿がしっかりと洗われヤニ一つこびりついていない。僕は酔っ払っていた方がしっかり者なのかもしれないなと思う。そんなことを思いながらコップで三回程口をゆすぐ。まだ喉が痛む。今日は夕方から仕事だ。日中はどうしようかと考えながらトイレに向かう。トイレのドアノブを掴んで、昨夜の嘔吐を思い出す。やれやれ、まず今日の仕事はトイレ掃除からだなと、諦めにも似た決心でドアを開ける。嘔吐特有の悪臭を予想したが、意外にも芳香剤の良い香りがただよう。便器をみると、むしろ普段よりも綺麗に磨かれている。酔っ払い万歳と良い気分で便座に座る。綺麗なトイレとは実に気持ちのいいものだ。良い気分のまま用を足して、トイレットペーパーを掴もうとして僕は驚く。トイレットペーパーの切れ目が、ホテルや飲食店のトイレのように三角形に折られている。酔っているからと言って、僕はここまでするだろうか?ふと懐かしい記憶が脳裏に浮かぶ。三年前、病気で亡くなった母だ。その母も、宿泊施設で清掃の仕事をしていたせいか、たまに自宅のトイレットペーパーを三角形に折っていた。僕はそれを見つけては、職業病だねと揶揄したものだ。懐かしい思い出に浸るがここは実家じゃない。それに母はもういないのだ。僕は懸命に思い出す。昨日、部屋で倒れたところまでは覚えている。その後が思い出せない。よく考えれば、僕はいつの間にベッドに潜り込んだのだろう。トイレでしばらく考え込んだが、答えは出なかった。

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