第五章
僕は簡単に朝食を済ませた後で買い物に行き、帰りに書店で夏美の病気に関係のありそうな文献を適当に見繕って購入してきた。自宅に戻ると、アイスコーヒーを作り、それを飲みながら本を開く。読み慣れない複雑な言葉が並んでいるが、冬美から聞いていた予備知識があったおかげで大まかな部分は理解できる。
解離性同一性障害。僕はこれまで耳にした事がない言葉の理解をなるべく深めるために、解離と言う単語と、同一性という単語を個別にまとめてみる。
まず解離とは、一人の人間が連続的、かつ統合的に持つべき記憶、意識、さらには痛覚などの感覚が一つの人格に統一されていない状態。耐え難い心的外傷を受けた場合、自己・自我を守るために、それを別の誰かに起こった事としてしまう事を起因とする。例えばこの状態の人が自分の手首をナイフで切りつけたとして、それが自分の身に起こった事ではないと認識しているので実際に痛みはないと言う。
次に同一性とは、自分の記憶や感覚が、自分のものであると認識すること。成長過程において形成される、変化することのない人格。自我同一性とも言う。精神的に健康な人間に置いては、ごくあたりまえに備わっている当然のものであり、敢えて自問したりするような内容ではない。
では、解離性同一性障害とは。解離が繰り返し行われることにより、同一性が損なわれる精神疾患と言うことになる。この疾患で問題となるのは、別人格が現れることではなく、繰り返し、または長期的に解離状態になることにより、本来の人格を損なうこと。また同時に、解離状態の記憶が本来の人格にないということも挙げられる。
定義としては大きく三つ。まず、二つ以上の明確な人格状態が存在する事。次に現れた人格がその肉体を支配している事。そして最後に、もの忘れでは説明できない記憶喪失がある事。夏美に置き換えて考えてみるが、いずれも当てはまる様にも思えるが、あまりにこじつけ過ぎではないかとも思える。
さらにどうも気になることがある。それは記載されている過去の症例で、手元の文献ではいずれの場合も一様に別人格を形成してはいるが、それは本人が頭の中で創り上げた架空の人物であり、春美の様に実在する人格ではないと言うことだ。
付け焼刃であるから安易に断定は出来ないが、いよいよもって夏美の症状が解離性同一性障害だけでは説明が付かなくなってくる。場合によっては自分の考え過ぎという方がしっくりくる。そうこうしているうちに出勤の時間が近づく。喉を唸らせながら鼻から大きく息を吐き出すと、アイスコーヒーを飲み干し、洗面所で歯を磨いて家を出る。
今日の勤務は24時まで。伸介と二人で警備にあたる。勤務開始からまだ30分程しか経過していないのに、真向かいに立つ伸介は、大っぴらにあくびをする。僕はそれをいさめる。
「おいおい、気持ちは分かるけど、少しは我慢しろよ。噛み殺すとかよ。」
「えー?どうせ誰も見ちゃいねぇよ。それにさ、こんなにセキュリティーがしっかりしてるのに、人間が二人も立つ必要があるのかね?」
「万が一だよ。よっぽど大切なものでもあるんだろう。」
「こんな事に金使って。金持ちの考えることは理解できないよ全く。」
「まあ良いじゃないか二人で。こんな無機質な空間で一人で警備となったら、それこそ地獄だよ。」
「はいはい。言っておくけど、無理なプラス思考はかえって体に毒だぞ。」
と、素っ気ない返事をしてくる。僕はふとひらめき、伸介に尋ねる。
「なあ、おまえ、心理学とか精神病に詳しい知り合いっているか?」
突拍子もない質問に伸介は鼻で笑う。
「はあ?なんだよ急に。」
「いや、ちょっと気になることがあってな。」
僕は真剣な顔をする。その神妙な面持ちで察したのか、伸介の表情も変わる。
「うーん。心当たりがないわけではないが。」
そう言って天井を見つめながら手であごを撫でる。
「え?本当か?それは助かるよ。じゃあ、その人に会って、直接話をするってのは可能か?」
伸介は、あごを撫でたままチラリと視線を僕の方に落とす。
「可能も何も、目の前にいるから好きに話せばいい。ただ、力になれるかどうかは内容にもよるけどな。」
「……、え?それって?」
「これでも俺は、大学で心理学を専攻していたんだ。」
「は?おまえが?」
僕は驚き指を差しながら言う。ムッとした表情で負けじとこちらに指を差し返しながら抗議してくる。
「言っておくけどそのリアクションは失礼だからな?あと、心理学を学んでいながら、何で今この仕事をしているのかって質問もなしにしてくれ。」
「わかったよ。じゃあ、心理学を学んでも女の心理は読めないんだなって質問は?」
「うるせえ。もうおまえの力にはなってやらん。」
伸介は興醒めといった様子で僕の方に向けて手を払ってみせ、背を向ける。
「ごめんごめん。冗談だよ。でも助かるよ。ちょっと聞きたいことがあるんだ。」
僕が手を合わせて謝罪すると、しかたなさそうにこちらに向き直る。
「もう一回言っておくが力になれるかどうかは内容にもよるぞ?心理学と言っても幅広いからな。期待を寄せられてがっかりされてもつまらないから。」
「かまわないよ。少なくとも全く知識のない俺にはありがたい助っ人だ。」
「ふん。まあいいよ。で、どうしたんだ?」
僕はどこから話そうかと少し考え、
「彼女のこと、なんだが。最近ちょっと変なんだ。」
と、まとまらぬまま話し出す。当然伸介は、
「変?なんだそれ?」
と、意味を解せぬままに口を開けっぱなしにする。
「彼女には、憧れている、というか極度のコンプレックスに感じている双子の妹がいるんだが、その妹の物真似ばかりをするんだ。最初はただの真似ごとかと思っていたんだが、最近特にエスカレートしたというか、俺が見てて、真似なのか本気なのか判別が出来ないくらいなんだ。」
「本気なのかって?」
「本気、なんというか、人格ごと妹になっているんじゃないかって。」
「人格?二重人格を疑ってるって言うことか?」
「とも違うような。」
「うーん。で、真似をしている時、本人に自覚は?」
「ある時と、ない時と、と言うか正直わからん。真似をすると言って始めるけど、妹の真似をしているときは妹の名前で呼ばないと会話が進まないし、苦手だって言ってた金魚すくいが突然プロ級に上手くなったり、普段飲まない酒を飲んだり、昨夜は寝ぼけているのに無意識で妹の感じでメールをしてきたんだ。」
「メール上では、実際多くの人が人格が変わるって言うからな。あまり気にしないほうが良いかも知れない。でも、普段飲まない酒を飲んだというのは気になるな。飲めないわけではないだろうが、この病気の症例では今まで食わず嫌いだったものも口にすると言った話を聞いたことがある。それに金魚すくいの話も気になる。別人格が現れることによって身体能力が説明付かないほど向上する症例もある。ただ、その彼女が最初から得意だった可能性もあるな。例えばおまえを驚かせるために。過去に彼女と金魚すくいをしたことは?」
「ない。」
「女ってもんは、自分を可愛くみせる為にだとか、男を立てる為にわざと出来ないフリをしたりするからな。男の支配欲や優越感を満たすために。」
「そんな器用な女じゃないと思うけどな、あいつは。それに、だとしたら何のために金魚をすくったんだよ。出来ないままでいれば良いのに。」
「それは本人しか知らないよ。おまえを立てることに愛想付かしたんじゃない?」
「う、うん。くやしいけどそれはなんとなく納得いくな。」
「そうなってくると、なんだか全部がおまえの考えすぎの様な気もするけどな。」
「正直俺もそう思うんだよ。彼女の姉から過去の話を聞いてな。それ以来、自分でも多少ステレオタイプになっている気はする。」
「過去って?虐待を受けたりしてたのか?」
「いや、違うんだ。」
僕は冬美から聞いた夏美が春美になったいきさつを説明する。
「なるほどな。で、最近になってエスカレートしたのは突然か?大体こういうことには何かしらのきっかけがあるものだが。」
「あるとすれば例の火事。あれで妹が死んだ。」
「……。」
火事の話題になると、伸介は顔をゆがめる。あの日伸介のわがままを断り、夏美とのデートを続けていれば、彼女はあんな恐ろしい目に合わなくて済んだ。と言うことを気に掛けているのだろう。無事に彼女は助かったのだから気にしなくて良いと言い続けてきたが、伸介はあの日のことを何度も謝ってきた。確かに自分が彼の立場であったら、想像も出来ない後悔にさいなまれただろう。さらに今回その火事が原因となり彼女に精神的な苦痛が残ったのだとしたら、伸介にとって改めて申し訳ないと思っても当然だ。僕はなるべく気を使わせないように続ける。
「あ、いや、あの事は本当にもう良いって。大体、おまえだって火事になるなんて知らなかったんだし。交換してやるって決断したのは俺なんだから。それよりも、今後のことを助けて欲しい。正直俺は八方塞がりなんだ。」
「いや、あの火事のことは本当にすまなかった。でも、だったらなおさら、力になりたい。詳しく話を聞かせてくれ。」
僕はうなずくと、伸介に初めて夏美と言う名前を明かし、冬美から聞いた話と、実際に自分の体験した話を、出来る限り事細かに説明した。伸介は空を見つめながら、うんうんと相槌を打ってそれを聞いていた。
「ここまで話を聞いていると、それは確かにおまえの考え過ぎと言うよりは、解離性同一性障害の再発と考えても良いのかもしれない。」
「だろ?」
「うん。ただ、気になるのは、妹と言う実在する人物が現れるということ。正直、俺が大学の時代はこの病気が認知されて浅かったから、詳しい資料があまりなかったんだ。だから一概には言えないが俺の知る限りでは初めてのケースだ。」
「やっぱりか。俺もいくつか本を調べてみたが、症例には記載がなかった。」
「でも早合点は良くない、詳しく調べればあるかもしれないし、それに今ならそういった症例も報告されているかもしれない。今日帰ったら、いろいろ調べてみるよ。学生時代の友人に相談できるヤツもいるしな。」
「ホントか?悪い。助かるよ。」
その後、伸介はぶつぶつと独り言を言いながら知識と記憶を反芻しているようだった。僕はなるべくそれを邪魔しないように心がけた。
24時きっかりにタイムカードを切り、伸介と別れ帰路につく。去り際に、
「火事の件は、本当に申し訳なかった。」
と言ってくる。
「だから、気にするなって。」
と、努めて明るく振舞う。伸介とは数年来の仲だ。互いに信頼関係も構築されているのだから、責任を感じるのも無理はない。一方、僕からすれば、数年来の仲なのだから逆に気を使わなくても良いのにと思う。今となっては頼もしくすら思える伸介の背中を見送った。家に帰ると僕は、いつものようにコンビニで買ってきた二本の缶ビールを、一つはキッチンに置き、もう一本を冷凍庫に入れて、代わりに凍らせてあったグラスを取り出す。弁当をレンジに入れ温めている間にビールをグラスに注ぐ。一口目を時間を掛けて喉の奥に流し込むと、携帯を手に取り夏美宛に『今帰ったよ。もう寝た?』とメールをする。すぐに夏美から電話が来る。電話に出るといつもの夏美の声が聞こえる。
「やっほー!おつかれ。」
「うん。今、ご飯の準備中。腹減った。」
「うんうん。いいことじゃない。健康の証よ。そんなことよりビックニュース。」
「お?部屋決まった?」
「……もう、先に言わないでよ。」
「だって、今の夏美のニュースって言ったらそのくらいだろ?」
「失礼な。まあ、そうだけど。でね、即入居可だったし、家電付きの部屋にしたから、早速明日から住もうと思って。」
「早いな。そうか、荷物も少ないんだっけ。」
「そう。」
「で、場所はどの辺り?」
「実家のすぐ近く。やっぱり勝手知ったる地元が一番よね。」
「そっか。その方が俺も助かるよ。」
「そうでしょ?早速明日泊まりに来る?」
「行くよ!もちろん。あ、でもちょっと待って、明日の仕事は……。」
そう言って、自分の手帳を確認する。明日は今日と同じシフト、明後日は休みだ。
「完璧だよ。明日は、今日と同じくらいの時間になると思う。遅くなっても良いかな?」
「別に良いよ。一人暮らしになったんだし。じゃあ、ご飯作って待ってるね。」
「お、初の手料理か。」
「何がいい?」
「んー、任せるよ。ロールキャベツ。」
「任せてないじゃん。ロールキャベツね。正直作った事ないからどんな代物が出来上がるか分からないけど、何があっても全部食べるなら作っても良いよ。」
「じゃあダメ。ホントに任せるよ。」
「わかった。じゃあ、今から考えておくね。」
「うん。楽しみにしてるよ。」
「あんまり期待されても困るけど。じゃあ、もう遅いからおやすみ。」
「うん。おやすみ。」
と言って僕は電話を切る。弁当を食べながら缶ビールを二本飲み干し、風呂に入って寝る。心が安らいだ状態で眠りに付くのは久しぶりだ。二回くらい寝返りを打つころには僕はとうに夢の中だった。
次の日、僕は朝食を作るべくキッチンに立つ。鍋でお湯を沸かしている間に白菜を切り、沸騰したあたりで火を弱くし、粉末の出汁の元をさらさらと入れた後で白菜を入れる。さらに豆腐を半丁分入れ、お玉ですくった味噌を、菜箸を使って円を描くように丁寧に溶かし、少しすくって味見をする。鼻から鰹だしの香りがやわらかに抜けていく。
僕はふと母のことを思い出す。幼い頃から母と二人暮しだったから、少しでも母を助けようと料理の手伝いをしてきた。特にみそ汁は毎食出るものであったから、母の調理をみては真似をするように勉強してきた。初めて一人でご飯を作り、仕事から帰ってきた母に振舞ったときは、涙を流して喜んでくれた。いつからか、僕がしっかりしなくてはと言う使命感にとらわれ、常に学校では先生に愛されるような生徒であった。自分で言うのもなんだが、母の為に品行方正を目指し、そしてその通りの息子であったと思う。それにしても母はしっかりした人物であった。朝から晩まで働き続けながら家事をこなし、しかし僕には愚痴一つこぼさず、むしろ常に笑顔で接してくれた。遠い記憶が、目頭を熱くする。僕は首を振って料理に集中する。
みそ汁の味の調整が済むと、僕はフライパンを熱し、油を垂らす。目玉焼きを作るべく冷蔵庫から卵を一個取り出し、シンクにコンコンと打ちつけひびを入れる。そのひびに丁寧に左右の親指を当て、フライパンの上で割る。中から黄身が二つ出てくる。思いもよらぬ出来事にはっと息を呑むと、瞬間的に脳に電気が走り、体がふわりと浮いた感覚にとらわれる。途端に胃の奥がきりきりと痛み出す。僕は菜箸を取り、考えるよりも先に卵をかき混ぜている。呼吸が荒くなる。
僕は何をおそれているのだ?
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