第四章
夜、仕事から帰ると、僕はくすんだ色の部屋の壁に掛けられたカレンダーに目を向ける。七月の役目を終え、新しく顔を出した八月のカレンダー。あれから一週間が経つ。一向に夏美からの連絡はない。僕は誰も聞くことのない灰色のため息を一つ吐き出し、キッチンに向かうとコンビニで買って来た弁当をレンジに入れ温める。冷蔵庫から缶ビールを二本取り出すと、一つは冷凍庫に入れ、もう一つはプルタブを押し上げる。思い出したようにもう一度冷凍庫を開けると、凍らせておいたビールグラスを取り出す。取り出したグラスが外気に触れて霜が発生し、真っ白に染まる。そこに開封したてのビールを注ぎ、納得の行く比率に泡をつくる。それをジッと見つめた後でグラスを傾け、ビールを喉の奥に流し込む。今の僕にとっては数少ない人生の喜びに、「はー!」っと虹色のため息を付くと、続けざまにもう一口流し込む。リビングに向かうと僕はテレビのリモコンのスイッチを入れ適当に選局する。幾つか切り替えたところで手を止める。花火大会の特集番組だ。夏美のことを想う。キッチンからレンジの温め完了のデジタル音が聞こえ、ビールグラスを片手にそちらに向かう。レンジから取り出し、改めて弁当をみる。白米の上に海苔が敷き詰められ、その上にソースがかかった白身魚のフライとちくわの磯辺上げが乗り、さらにその上にタルタルソースがかけられている。キッチンに一度ビールグラスを置き、包装されているビニールを破り蓋を取っていると、今度はテレビの方から音が聞こえる。振り返るとテーブルの上にある携帯が着信している。僕は急いで弁当の蓋を開けてしまうと、引き出しから箸を取り出し、ビールグラスを持ってテーブルへ戻る。グラスと弁当を置き、代わりに携帯を取ると、液晶に見知らぬ番号が連なっている。一瞬迷ったが通話ボタンを押し、携帯を耳にあて、
「はい。」
とだけ言う。向こう側から陽気な声が聞こえる。
「もしもーし。元気?」
僕は少し戸惑うが、その後でかろうじてその声の主が夏美であることを悟る。
「もしもし、……、夏美か?」
そう言いながらリモコンでテレビを消音にする。
「そうだよ。わかる?」
「う、うん。」
そう答えたが一瞬何のことかわからない。そしてすぐに夏美の携帯は火事で無くなってしまったことを思い出す。自分の電話帳に過去の夏美の番号が登録してあるから着信の時は夏美の名前が液晶に出ると思い込んでいたが、そういうことかと理解する。
「やっぱり、声だけでわかるものね。」
と、夏美は関心している。
「そりゃあ、彼女の声ぐらいわかるよ。」
「ふーん。言ってくれるじゃない。」
そう言ってたしなめてくる。
「ごめん、今の訂正。あまりにも待ちくたびれて、彼女の声かどうかわからないや。」
と、負けじと応戦する。
「うん。……、待たせちゃってごめんね。」
と、意外にも素直に謝ってくるので少し調子が狂う。
「んー、なんだよ調子狂うな。そんなにすぐに謝るなよ。」
「違うの。今回ばかりはほんとに申し訳なかったなって思って。」
「別に、しかたないよ。色々あったんだし。」
「そうだけど、きっと大輔は寂しくて泣いていたんじゃないかなーって。だからごめん。」
「なんだよそれ。残念だけど、泣いてないよ。俺は夏美を信じてるし。」
僕は無音のテレビを眺めながら言う。真っ黒な夜空に、色鮮やかな花火がぽつりぽつりと順番に咲く。
「……、そっか。ありがと。」
「おいおい、なんか調子狂うな。まだ、本調子じゃないのか?」
「ぜーんぜん。もうふっ切れたって感じ。泣いても泣いても家族は帰ってこないし、前に進むためには顔をあげなくちゃいけないし、彼氏は遠くで泣いてるし。」
「だから、泣いてないって。」
「ふーん。それはそれで寂しいけどな。」
「その手には乗らないよ。信じれば道は開けるってのが座右の銘なんでね。泣き言は言わない主義なんだ。」
「頼もしい彼氏で嬉しいわ。」
と、冷めた口調で言ってくる。そのトーンで、夏美がだいぶ回復した事を実感する。
「そんなことより、電話してきたって事は、もう大丈夫だってこと?」
「うん。さっきも言ったとおり、私もそろそろ前を向かなきゃね。」
「そっか。なら良かった。ホントに、安心した。」
僕はそういうと喉にビールを流し込む。当たり前の会話が、こんなにも嬉しい。本当は話したいことは一杯あるのに、ふいに訪れる沈黙。この沈黙だって、電話の向こう側にいる相手の息づかいがわかるから感じられるんだ。その無音に気遣うように、音もなくテレビ画面に咲く花火。クライマックスを迎える多くの色を持つ火花が、所狭しと画面上を踊る。ひとしきりカラーテレビの実力を発揮させた後で、最後にたった一つの黄色い花火が打ち上げられ、一輪の向日葵が誇らしげに夏の夜空に咲く。僕は口を開く。
「なあ、花火大会に行こうか?」
「え?」
「花火大会。火事の後で不謹慎かもしれないけど、俺、夏美と花火が観たい。」
夏美は黙っている。僕は続ける。
「クライマックスの最後の最後に、一輪の大きな向日葵が咲く花火大会があるんだ。夏美には向日葵が似合う。だから、世界一大きな花を咲かせる向日葵を、夏美と二人で観に行きたい。」
すぐに夏美の返事がある。
「うん。行きたい!」
その元気な一言が僕を安心させる。
「よし!じゃあ、決まり。」
「で、その花火大会はどこでやるの?」
「え?えーと、ごめん、知らない。」
「え?じゃあ、いつやるの?」
「知らない。調べておく。」
「なにそれ?」
「なんでも良いんだよ。とにかく調べておくから。」
「はあ?知ってて言ってたんじゃないの?」
「良いんだよ。さっきテレビで見たんだ。調べて分かったらまた連絡する。じゃあね。」
「そういうことね。まあ良いわ。私もしばらくやることないから。首を長くして待ってる。あ、それから、新しいアドレス決まったらメールするから、アドレス教えて。」
そう言われ、僕は順にアルファベットを言っていきメールアドレスを伝える。
「オッケー。それじゃ、また。」
そう言って夏美は電話を切る。僕はリモコンでボリュームを戻して花火大会特集の番組の続きを観ながら、世界一おいしいコンビニ弁当を食べ終える。一本目の缶ビールを空けると、キッチンへ行き、冷凍庫から缶ビールを取り出しグラスに注ぐ。そして、グラスと半分残った缶ビールを持ってパソコンに向かうと、先ほどテレビでやっていた花火大会を検索する。たいした時間を要することなくその花火大会を見つける。三日後だ。僕は日時と場所をメモすると、パソコンの電源を落とす。残ったビールを飲み干し、シャワーを浴びてベットに入る。薄暗い部屋の中で、エアコンの風に吹かれて八月のカレンダーが静かに揺れる。寝苦しい夜ではないが、眠りに付くまで時間が掛かった。
駅の構内に入ると、僕は夏美に電話する。3コールで夏美が出る。
「遅ーい!」
いきなりの夏美の大声に携帯から耳を離す。すぐに携帯を耳にあて直し抗議する。
「遅いって、時間通りじゃないか。」
「女の子より後にきたらそれはもう遅刻なの!」
「よく言うよ。自分は時間通りに来た事ない癖に。」
「記憶にございません。」
「はいはい。もう駅だよ。どの辺?」
「改札の前。もうホームに行っちゃうからね?」
「ちょっと待てって。もうすぐだから。一回電話切るよ。」
そう言って電話を切ると改札の方へ駆け足で向かう。この二日、夜には決まって夏美に電話をして話をしていたが、夏美の顔を見るのはほぼ10日ぶりだ。自然と胸が高鳴る。改札に到着し辺りを見渡すと、黄色い浴衣姿の夏美を見つける。僕は夏美のもとへ駆け寄り、
「ごめんごめん。お待たせ。」
と手を合わせて謝罪する。経験的にここで謝っておかないと後が面倒だ。夏美はそんな僕を見て、
「はあー!?それだけ?他になんか言うことない?」
と怒り出す。
「え?」
「え?じゃないでしょ?なんか、思わないわけ?」
僕はその言葉を受けて、他に夏美に謝罪することがあっただろうかと考えるが、一向に思いつかない。
「ごめん。他に夏美に謝るようなことをした記憶はないよ。そんなことより、その浴衣、似合ってるよ。」
と言う。
「な、なによ!……、ありがとう。」
と夏美はうつむく。
「向日葵みたいで可愛いよ。」
と笑顔で告げる。
「それって褒めてる?」
「その浴衣に対しての最上級の褒め言葉さ。」
「なんか、納得いかないけど。まあいいわ、行きましょ。」
と言って、ぷいと背中を向けると軽い足取りで改札を抜ける。
「気が早いねー。」
と言って僕も後に続く。電車の中はかなり混み合っている。おそらくほとんどが花火目的の客だろう。夏美は僕にしがみついている。そして、
「うー、なんでこんな混むかな。」
と、愚痴をこぼす。
「みんな花火大会じゃないかな。だとすれば、この混雑の原因は俺達にもある。だから文句を言わないこと。」
「んー、分かるけどー。」
そう言って僕の胸に顔をうずめる。僕はその肩をそっと抱く。こんな状況なら満員電車も悪くないものだなと思う。目的の駅に電車が到着すると、乗客が一気に動き出す。その乗客たちに押され、ほとんど自動的に電車から降りる。
「はぁー。」
と言って浴衣の着崩れを気にしながら夏美が息を吐き出す。それを観ながら、
「はっはっは。ようやく開放されたね。やっぱりみんな花火の客だったか。」
と僕は笑う。そして『花火会場はこちら』と書いてある看板の示す階段に飲み込まれていく大量の人を見ながら、
「でも、試練はまだまだこれからみたいだね。」
と、続ける。うんざりと言った表情で決心しかねる様子の夏美の手を取ると人ごみに紛れていく。いたるところに花火会場を示す看板が立っているが、人の流れに沿って歩く僕らには無意味に思える。駅を出て人の流れに任せてしばらく歩いていると、『ドーン!』と言う音が響く。僕らは迷うことなく空を見上げる。真っ白で大きな花火が咲く。
「お!始まったね。」
僕と同様にあちこちで歓声が上がる。
「綺麗だね。」
と、空を見上げて夏美が言う。
「うん。これぞ夏の風物詩。」
僕らは流れにそって足を止めずに感想を言う。その後もひっきりなしに花火は上がる。ふと視線を落とすと遠くに屋台が見える。道に沿って両側にずらりと並ぶ屋台。その屋根には、『お好み焼き』『わたがし』『金魚すくい』『焼きとうもろこし』と様々な言葉が並んでいる。
「良しきた!今日は飲むぞ!!そのために電車で来たんだ。」
僕は夏美の手を引き生ビールを売っている出店目がけて強引に進む。
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