僕は冬美のカップに日本酒を注ぐ。
「ありがとう。私は夏美が出掛けた後で、春美がいる手前、あまりショックを受けさせないように二人に説明した。これは一時的な失恋のショックからきているものだから、そっとしておいてあげるようにって。二人はもちろん納得してくれたけれど、ひどく神妙な面持ちだったから、私はこんなこと続かないからって安心させたの。実際それで安心したかどうかは分からないけれど、残念ながら私の予想ははずれた。その後で同じことが二回あったの。」
「続いたってことですか?」
「そうなるわね。二回目は春美が友達の家にお泊りの時。三回目は春美が旅行に行ったとき。」
「どちらも、春美ちゃんがいない時。」
「そう。今日は春美帰ってこないんだーって部屋に入っていって、次に出て来る時にはすべてが春美になってる。」
「最近もですか?」
「いいえ。ここ数年は無いわ。あくまで前の彼と別れた直後の話。たぶんもう大丈夫だと思うけれど、あまり春美に対してコンプレックスを抱いて欲しくないのは正直な意見ね。」
「それでさっき。」
「そう。」
「で、その、本人に自覚は?」
僕は煙を排出し続けるタバコの先を見ている。
「どうかしら、あの調子だとないとは思うけれど。それにもう、たぶん終わったことだから本人に伝えてもいない。世の中には知らない方が良い事もあるのよ。ただ、夏美と付き合っていくなら、一応名前くらいは知っておきなさい。解離性同一性障害。」
「解離性……。」
「解離性同一性障害。自分に対するあらゆる不満が、それを解決する為の性格や人物をつくり上げてしまう心の病気。」
「多重人格ですか?」
「そうね。色んな見解があるから全く同じものとは言い切れないけれど、94年、多重人格障害は解離性同一性障害と再録された。でもね、夏美の場合ちょっと一般的な症例とは違うのよ。この病気の症例を幾つか調べてみたんだけど、平均的には10名前後の人格が内部に潜んで、交代しながら現れる。子供人格や暴力的な人格、あるいは異性人格、それぞれが独立して現れて、自分の人格に戻ったとき、記憶障害では説明が付かないような行動の形跡があったりする。リストカットや薬物乱用にはしることも珍しくない。」
「え?夏美は?」
「そんなことはなかった。彼女から現れるのは春美の人格だけ。特に自分を傷つけたりすることもなかったし。もう一つ特徴があって、多くの場合、別人格が現れている間、本人の記憶は失われているのだけれど、別人格は本人の事を認知している。」
「すいません。ちょっと意味が分からないです。」
「スーパーマンは、変身前の情けない自分の事も知っているけれど、変身前の自分は、まさか自分がスーパーマンに変身出来るだなんて夢にも思わないってことよ。でも、夏美は違った。夏美の中に宿った春美は、明らかに本来の夏美のことを知らなかった。あくまで私は春美だって言い張ったの。」
「じゃあ、違う病気ということですか?」
「どうかしら。一部の症状は似ているし、違うところもあるし。この病気、略称をDIDと言うんだけれど、なにしろ認知されてから年数が浅いから、DIDに詳しい医師もまだまだ少ないのよ。ビリー・ミリガンのノンフィクションを読んでみたり、統合失調症やアスペルガーシンドロームとか、他の類似した文献もあさってみたけれど、どうもしっくり来ないのよね。大学の時お世話になった教授に相談しても、別の研究で忙しいらしくて、一時的な人格障害じゃないか?ってあっさりと断られるし。まさか我が妹を大学の研究に差し出すつもりもないし。」
「え?じゃあ、どうすれば?」
「今のところ心配ないわ。さっきも言ったように、この数年夏美の中の春美は顔を出してこないし、もしかしたら教授が言っていたように、一時的な人格障害だったのかもしれないわ。」
「そうですけど、気になりますね。」
「心配しないで。あなたがたっぷりと夏美に愛情を注いであげていれば、もうそんなことにはならないと思うから。ただ一つだけ、もしも今後夏美から春美のような新しい人格が生まれてしまった場合、決してその人格を否定しないこと。」
「え?しないとは思いますけど、なぜですか?」
「一人の人間が自分の中で新しい人格をつくり上げる場合、それは本来の人格が自分を肉体的に、あるいは精神的に守るために生まれていることがほとんどなの。その人格をISHと言うんだけれど、それを周りの人間が否定してしまうことは本来の人格を保護する人を否定することと同じこと。夏美はどういう訳かそれを春美に当てはめているの。そんな夏美の中の春美を否定したら、夏美自身はどうなるかしら?」
「自分を保護してくれる人を失い、夏美の人格そのものが崩壊する?」
「概ねそんなところね。それは多くの場合、症状の悪化しか呼ばない。おそらく行き詰った夏美は自己を保護するためにさらに新しい人格をつくりあげるでしょう。あるいは牙を剥いて春美の人格が襲ってくるか。」
そう真剣に話す僕らの元へ、フリスビー隊が帰ってくる。スニーカーを脱ぎブルーシートに上がってくると、秋子が突然、
「はいはーい。ではー花見恒例となりましたー、一発芸のコーナー始まり始まりー。」
と言い出す。どうやら飲んだ上に運動をしたせいで酔いが回っているようだ。夏美と春美もサンダルを脱いでブルーシートに上がる。
「ほなさっそくー、言いだしっぺのうちからいきまーす。」
秋子の言葉に春美と冬美が拍手をする。夏美は恥ずかしそうにうつむき、僕は呆気にとられている。
「いっくでー!!」
そう言って秋子はいきなりオレンジのジャージを捲り上げ、お腹を丸出しにする。咄嗟に僕は顔を背ける。お構いなしと言った様子で秋子は、
「どーん!!」
と言う号令と同時に思い切り右手を腹に打ち込む。『パチンッ!』という音に僕は顔をゆがめる。秋子は笑顔のままじっと手をおさえ、少しして手を離す。
「はい!もみじー!!」
と言いながら手を離すと、秋子の腹に真っ赤に手跡が残る。まるで紅葉のように。春美が歓声をあげながら拍手をする。冬美は口を隠しながら上品に笑う。夏美は顔を背け恥ずかしそうにする。僕は呆気にとられて言葉も出ない。
「よっしゃー!うけた。次は誰や?」
と満足気に秋子が座る。
「妹に負けていられないわ。じゃあ、私が。」
と、意外にも冬美が立ち上がる。
「はーい。私は円周率を言いまーす。3.14159265358979……。」
「わー!姉やんそれは勘弁してやー。」
無限に続きそうな円周率の暗唱を秋子がさえぎる。春美は目を輝かせながら、
「冬美姉さんすごいです。」
と拍手をする。
「おまえは答え知らんやろ!!」
と秋子が春美を軽く叩く。夏美の表情がどんどん暗くなる。
「あらー、残念ね。まだまだ続けられるのに。」
と不満そうにする冬美。負けじと春美が立ち上がる。
「じゃあ、私がいきまーす。」
「お?春美、おまえいける口かいな!」
僕と夏美がギョッとして立ち上がった春美に注目する。
「じゃあ、私は、夏美姉さんのモノマネをします。」
「は?」
と、真っ先に顔をしかめるのは夏美本人だ。
「春美、ファイトよ。」
「みせたれー春美ー!!」
冬美と秋子にはやしたてられて、春美がよしっ!と拳を握ると、右手で髪をぐっと持ち上げショートカットに見立てる。そして次の瞬間、春美は完璧に夏美になる。
「ふ、冬美姉さん、こんな場所で円周率とか恥ずかしいからやめてよ。それに秋子姉さんも、紅葉とか女の子がやることじゃない。」
冷静な態度の中に隠し切れない動揺が見える話し方、おまけに声色までそっくりだ。当然顔はそっくりなので完璧だ。今度は僕の方を見ると指差しながらモノマネをする。
「で、あんた。あんたよ大輔。まさかとは思うけど、あんたもくだらない一発芸をやるんじゃないでしょうね?絶対にやめてよ?こ、こんな場所で、こっちまではずかしくなるから。」
そう言って春美は顔を赤くしてうつむく。秋子は興奮を抑え切れず騒ぎ出す。
「うおー!春美、やるやんけー。」
開いた口がふさがらないとは、今の僕と夏美のことを言うのだろう。掴んだ髪をおろし恥ずかしそうに正座する春美から目が離せない。
「うふふ。素敵よ、春美。完璧じゃない。」
冬美が拍手する。それを聞いてもまだ春美は恥ずかしそうにしている。そして、夏美の方を見て、
「夏美姉さん、どうだった?」
と、申し訳なさそうに問う。夏美が答える。
「どうって、……完璧なんじゃない。」
搾り出すような言葉に一同が笑う。春美の顔に笑顔が戻り、今度は僕に質問してくる。
「大輔さん、どうでしたか?」
「いや、どうって。本人が完璧って言っているんだから、俺も文句はないよ。おどろいた。なんでこんなに上手なの?」
僕は逆に質問する。春美は目を閉じてゆっくりと話しだす。
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