【小説:解離性同一性障害 多重人格の彼女】ひのはな(20)

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ひまわり

僕は何をおそれているのだ?

そんな自問自答を繰り返しながら急遽レシピ変更となったスクランブルエッグを調理する。シューっと言う音と共に沸騰したみそ汁が鍋からふきこぼれそうになっている。『あっ!』と思った時には中身が溢れ、コンロの火が消える。煮えたぎる音と共に沸騰が収まっていく。ため息をつきながら首をうなだれる。そうしていると今度はフライパンから焦げた臭いがしてきて、慌てて火を止めてかき混ぜると、一部黒くなった部分があらわになる。『しっかりしろ、俺がしっかりしなきゃ、夏美はどうなるんだ』と、自分に言い聞かせ、朝食をテーブルまで運んでいく。

「いただきます。」

と箸を持ったまま手を合わせて言うと、みそ汁を一口すする。沸騰してしまったせいで出汁の旨みと香りが損なわれている。焦げ臭いスクランブルエッグを口に運ぶと、さらに憂鬱な気分になる。僕はリモコンを手に取り、気分を変えるためにテレビをつける。相も変わらず混沌と化した政界の不祥事や芸能ニュースを報じている。半ば意識を遠くに置きながらぼんやりと眺め、味気のない食事をすすめる。テレビから『ピッピ、ピッピ』というデジタル音がするので、そちらに目をやる。画面上部に速報のテロップが流れる。

『先日、坂本登さん宅で発生した火災で、警察は放火の疑いもあると捜査を進めていたが、先程、近くの交番に犯人と名乗る男が出頭。警察は高橋伸介容疑者〔27歳・警備会社勤務〕を放火の疑いで逮捕。高橋容疑者は、以前から長女の冬美さんに交際を申し込んでいたが、断られたことに腹を立て犯行に及んだと自供。』

続けざまに二回、そのテロップが流れる。情報の整理が出来ない。力が失われた手から箸が滑り落ち、軽い木製の音が部屋に響く。脳が膨張した感覚に陥り、世界中から音と色がなくなる。耳から脳に、キーンという音が突き刺さる。胃が持ち上がり、舌がしびれてくる。僕はトイレに駆け込もうとして立ち上がるが、足が言うことを聞かず、座っていた椅子と共に床に転倒する。なんとか踏ん張り四つん這いになった瞬間、未消化の朝食が口から溢れ出て、それが体を支える両手にかかる。吐しゃ物に手を滑らせバランスを失うと、再び床に倒れこむ。呼吸がままならないからか、感情のコントロールができないからか、原因不明の涙がこぼれる。頭の中で、『僕が、しっかりしなくちゃいけないんだ。』と繰り返す。『大輔、しっかりしなさい。』と、母の声がどこかで聞こえる。しかし意識がゆっくりと遠のいていき、とうとう完全に遮断される。

再び目を覚ましたとき、僕は綺麗に整えられたベッドにいた。部屋の時計をみると仕事に行く一時間前だ。まだぼーっとする体を起こすと、綺麗なTシャツに着替えられている。

エアコンの風が当たるところに、今朝着ていたTシャツが綺麗に洗われ、ハンガーに掛けて吊るされて静かに揺れている。僕は不思議に思い、部屋の様子を見るため立ち上がる。嘔吐したあたりの床も綺麗に掃除され、朝食の残りがシンクの生ゴミ入れに捨てられ食器も片付いている。上手く状況を飲み込めずにいると、立ちくらみがする。さすがに今日は働ける気がしない。僕は携帯を手に取り会社に電話する。3コールで相手が出る。相手は前回欠勤の申し込みをして、あっけなく不可という解答を出した上司だ。

「すいません。佐藤ですが。」

「ん?なんだおまえか。どうした?」

「申し訳ないんですが体調が優れないので本日お休みを頂けないでしょうか?」

「……おまえ、何を言ってるんだ?」

「申し訳ありません。急な欠勤がまかり通らないことは重々承知なのですが、目眩が治まらず、万全な警備が出来るとは思えません。なんとかならないでしょうか?」

「いや、そうじゃなくて、さっき電話してきたとき、欠勤の許可を出しただろ。」

「……え?」

「おまえ大丈夫か?」

「え?」

「まあ、無理もない。俺だって驚いたさ。ましてやおまえは伸介とは長いからな。会社にも警察やらマスコミやらが来て大変だよ。こんなところに盗みに入る馬鹿な泥棒もいないだろうからな。今日のところはゆっくり休め。」

と言って上司は一方的に電話を切る。テーブルの上に携帯を置くと、首をかしげる。一体どういうことだ?僕は気を失っている間に一体何をしているのだろう。部屋も綺麗に片付き、会社へも欠勤の連絡をしている。全く記憶にない。意味もなく部屋の中をウロウロしながら考える。しかしどれだけ考えても答えは出てきそうにない。途端に夏美に会いたくなり、電話を掛ける。

「もしもーし。」

「あ、夏美。ごめん、急に。」

「うん、別に良いけど、どうしたの?なんか元気ないみたい。」

「ちょっと、いろいろあってね。ねえ、今日、仕事を休むことにしたんだ。気分が優れなくて。」

「え?うん。大丈夫?」

「うん。だいぶ落ち着いた。それで、なんか急に夏美に会いたくなっちゃって。話さなきゃならないこともあるんだ。今から向かっちゃダメかな?」

「ダメじゃないけど、仕事休むほど体調悪いのに、家に来て大丈夫?私がそっちに行こうか?」

「いや、良いんだ。ちょっと、この部屋を出たい気分なんだ。」

「ふーん。よく分からないけど、良いよ。でも、ご飯の準備間に合わないよ?まだ材料も買いに行ってないし。」

「かまわないよ。とにかく今は、夏美の顔がみたい。」

「なにそれ。」

「自分でもよく分からないんだ。」

「ふーん。なんかセンチメンタルなわけね。わかった。じゃあ着いたらたっぷり抱きしめてあげる。」

「うん。ごめん。」

「それで、満足したら買い物に一緒に行こうか?」

「そうだね。」

「オッケー。そしたらね、とりあえず前の家辺りまで来たら電話して。案外分かりやすいマンションだから、口頭でも道案内できると思う。」

「わかった。じゃあ、近くに行ったらまた電話する。」

と言って電話を切る。僕はすぐに身支度を済ませ、車を走らせる。運転をしながら、二つのことを思考する。一つは、自分の無意識下の不可解な行動について。もう一つは、自分の友人が夏美の家族の命を奪ってしまったことを、夏美にどう伝えるべきかと言うこと。後者に関しては言うべきことかどうかもわからない。しかし夏美に信用と安心を与えるためには、あらゆる隠し事は避けるべきとも思える。

夏美に指示されたあたりで電話を掛け、彼女のナビ通りに進み、結局自分の思考になんの結論も出せぬまま夏美の部屋のあるマンションに辿り着く。僕は再度夏美に連絡をして部屋の番号を聞くと、ドアの前まで行き、インターフォンを鳴らす。ピンポーンと音がして、程なくインターフォンに夏美が出る。

「はーい。」

「俺だよ。」

「はいはい。今開けるね。」

と言ってインターフォンが切られる。すぐに鍵が解除される音が響き、ドアが開かれ、愛しい女性の顔が現れる。

「いらっしゃい。どうぞ。」

言われるがまま中に入り靴を脱ぐ。背後で夏美はドアを閉め、鍵を掛ける。こらえきれずその背中を抱きしめる。夏美の髪から良い香りがして、僕はその髪に顔を埋める。ふーっと息を吐いた後で、うなじにある小さなホクロにキスをする。夏美は何も言わずじっとしている。ずっとこうしていたい気分だった。どのくらい時間が経っただろう、やがて優しく僕の手をほどきながら、夏美が口を開く。

「辛いことがあったのね。どうしたの?」

「うん。ごめん。」

「まあ良いわ。上がって。お茶でも飲みましょう。」

そう言って僕の横をするりと抜けて先に部屋の中へ入っていく。僕はその後に続く。

「そこに座ってて。今、お茶用意するから。あ、ごめん。まだクッションとか買ってないから、ちょっとお尻が痛いかもしれないけど。」

「うん。構わないよ。」

と言って絨毯の上に座る。夏美は冷蔵庫を開けて麦茶を出すと、用意したグラスに注ぎ、氷を入れてこちらに持ってくる。コンッ!と言う音を立ててテーブルの上にグラスを二つ置きながら、

「で、どうしたの?」

と聞いてくる。

「うん。なんて言えば良いのか分からないんだけど。」

「なにそれ。なんか私にとって悪い話?」

わざとだろうか、夏美はやけに明るく振舞う。僕は差し出された麦茶を一口飲んで喉を潤す。夏美もそれに続いてグラスを傾ける。

「今朝、ニュースで夏美の家の火事の事やってて。」

夏美から笑顔が消える。

「ごめん。辛いかもしれないけど、俺、隠し事は嫌だから言うね?あの火事……。」

「やめて!」

夏美が音を立ててグラスを置く。

「え?」

「もう良い。ごめんなさい。これは私の責任だから、私から言うね?あのね、私だって、こんなふうにするつもりはなかったの……。」

この後に続く夏美の言葉を僕は訳も分からず聞いていた。次第に世界が真っ白に染まり、そのまま意識が無くなった。と、思う。

目が覚めると僕は自分の部屋のベッドにいる。あれ?なぜ僕は自分の部屋にいるのだ?確かに僕は夏美の部屋にいたはずだが……。状況を判断するために部屋の時計をみる。針は6時を指している。しかし起きたばかりの僕は朝の6時か夜の6時かの判別が出来ない。

僕はデジタルの時計を探し、ふとひらめいて枕元の携帯を開くと、すぐに朝の六時だと分かる。どうなってるんだ?夢でも見ていたのだろうか。しかし確実に夏美のマンションに行った記憶はあるし、場所だって覚えてる。僕は少し悩んだが夏美に電話を掛けてみる。

しかし何コール鳴らしても電話に出ない。ただならぬ違和感を感じ、僕はすぐに家を飛び出し、車を夏美のマンションに向けて走らせる。

30分程で夏美の住むマンションに着く。確かにマンションはある。つまり夢ではない。

僕は記憶している部屋の前に立ち、インターフォンを鳴らす。一向に返事はない。無意味と分かっているがドアノブをひねる。と、ドアは意外にもすんなりと開く。玄関に入り、開口一番名前を呼ぶ。

「おい!夏美!!」

返事はない。

「ごめん、入るよ?」

と大声を出すがやはり返事はない。僕は決心し部屋に入る。部屋は電気が消えていて薄暗いが、すぐに夏美がいることが分かる。夏美は、テーブルにもたれるように眠っている。テーブルの上には麦茶の入ったグラスが二つ、それから書いている途中の日記らしきものが開かれたまま置かれ、その脇に風邪薬だろうか、錠剤の入った小瓶が置かれている。僕は夏美を起こそうと肩を叩く。

「おい、夏美。ごめん、勝手にお邪魔してるよ。」

僕が肩を叩いた力で夏美がごろりと仰向けに倒れこむ。

「夏……美?」

僕の視界に、真っ赤に染まった左手首と、同じく真っ赤に染まった包丁が飛び込んでくる。夏美が覆いかぶさっていたテーブルの上も真っ赤だ。

「……。」

言葉も発せず息を飲み、恐怖にも似た感情で目を閉じたままの夏美から手を離す。

「夏美、おい、夏美!!」

訳も分からず夏美の名前を呼び続ける。しかしそうしていても解決しないことを悟り我に返ると、脈と呼吸を確認する。深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、携帯を取り出して119に電話を掛ける。住所を聞かれ一瞬戸惑ったが、辺りの住所とマンション名で分かってもらえる。電話を切るとすぐに、僕はタオルを探す。手ごろなタオルを見つけ、警備会社で学んだことを思い出しながら止血する。自分でも驚くほど迅速かつ冷静に体が動く。

一通りの応急処置を終えてやることがなくなってしまうと、何故こんなことを?と言う疑問が浮かぶ。ふと冬美の、『リストカットや薬物乱用にはしることも珍しくないし。』と言う言葉を思い出す。間違いない。僕はこのとき確信する。

夏美の病気は再発していたのだ。

そして自分の不甲斐なさを感じ、堰を切ったように涙が溢れ出す。僕は嗚咽まじりに夏美に話しかける。

「何やってんだよ夏美。ダメじゃねえかこんなことしたら……。おまえは何が不安なんだよ。なあ、教えてくれよ。俺、馬鹿だからさ、言ってくれなきゃわかんねえよ!なんでもするから……。一生おまえのそばにいるからよ、だから何が不安なのか教えてくれよ!!隠し事はやめようぜ。」

夏美は目をつぶったまま何も言わない。僕は夏美の頭を撫でる。

「ごめんな。……ごめん。俺、全然おまえの力になってやれてないよ。どうしたらいいかな?どうしたらおまえは安心してくれるのかな?分っかんねえよ。」

そしてそれ以上の言葉を失い、僕は夏美の手を握りながら泣き崩れる。かすかに遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。

「夏美。もう大丈夫だよ。」

優しく言葉をかけると涙を拭い、僕は救急車を迎えに外に出る。