第二章
夜が明けてまださほど時間が経っていない。フロントガラスからは住宅街と、青と灰色を雑に混ぜたような色の空が見える。僕は車を夏美の家の前で停めると、携帯を取り出して電話をする。何度目かのコールで夏美がでる。
「おはよう。着いた?」
電話越しに夏美の眠そうな声が聞こえる。
「うん。もう家の前だよ。」
「わかった。行く。」
そう言って僕の返事を待たずに電話を切る。間もなく玄関の扉が開き、ジーンズのショートパンツに黒いTシャツ姿の夏美が出てくる。車を見つけて手をこちらに向けて振ると小走りでこちらに向かってくる。降りて助手席のドアを開けようかとも思ったが、きっと夏美が嫌がるだろうと思ってそのまま待っていることにする。夏美は助手席側に回りこむとドアを開けて中に入って来る。僕は一言、
「おはよう。おまたせ。」
と言う。開口一番夏美は愚痴ってくる。
「おはよ。やっぱり早すぎない?まだ外暗いし。」
「そんなことないよ。この時間に出ないと渋滞につかまって身動きできなくなるし、駐車場だってろくに空いてなくて午前中を車の中で過ごすことになっちゃうんだよ。」
「ふーん。」
あくびをしながら夏美はシートベルトを締める。
「今日は夏美だけ?」
僕はわざとらしく質問する。そしてミラーで前後左右を確認してゆっくりとアクセルを踏み込む。
「私だけじゃ不満?」
そっけなく夏美が答える。
「はっはっは。そうじゃないよ。いつも賑やかだから。」
「今日はね、珍しく全員お出かけ。両親は日帰り温泉、秋子姉さんは昨日から彼氏とデートでお泊り、春美は美容院。で、本当は冬美姉さんとどこかに行こうかと思ってたんだけど、大輔が休みだって分かって姉さんに言ったら、じゃあ私も誰かとデートに行くわって言い出して。結局、誰か誘って夜から出掛けるみたい。」
「二人でデートに行っておいでってことじゃないのかな?」
「どうだか。あの人たちは自由だから。」
「まあ良いじゃないか。俺は付き合って初めて二人きりのデートだから嬉しいんだけど?」
あれから三ヶ月。仕事の関係で中々時間が合わないせいで、デートの回数は月に一回、その間の貴重なデートにも四姉妹はついてきた。毎度賑やかなのは結構なのだが、冬美から夏美の真意を聞いている僕としては複雑だ。それに、ムードを求める付き合いたての二人にとって、いつも大勢の目があることは必ずしもプラス要因ではない。ようやく準備をしてもらえたこの機会〔おそらく痺れを切らした冬美の気遣いだろうが〕に感謝。
「私だって、それはそうだけど。家族旅行も行きたかった。」
「じゃあ引き返す?家族全員海に誘おうよ。」
「いいから!それに車に全員乗れないし。」
「小さな車でゴメンね。坂本一家を乗せるために車を買ったわけじゃないもんで。」
「別に、そういう意味で言ったんじゃないから。」
「うん、知ってる。」
「もう。」
そう言って夏美はふくれる。しかしその横顔は決して不機嫌ではない。僕は眠気覚ましにコーヒーを飲もうと思い、夏美に注文する。
「ちょっとコーヒーとってもらえる?」
「コーヒー?どこ?」
「さっきコンビニで買ったんだよ。後ろにビニールがあるから。」
僕の言葉に夏美は体をよじると後部座席のビニールをガサガサとあさり、
「はいどうぞ。」
と言いながらサラミを一本差し出してくる。
「ありがとう。」
そう言って僕はハンドル操作を誤らないように注意しながらサラミの封を開け一口食べる。ジューシーなサラミの味が口に広がる。僕は実に自然な感じで、
「話聞いてた?」
と質問する。
「うん。」
と、夏美は当たり前のように返事をする。
「なら良いんだけど。」
と言って、僕はむしゃむしゃと三分ほど掛けてサラミを食べる。二人はまっすぐにフロントガラスの向こう側を見つめている。僕は少し発想を変え、
「ねえ、サラミを一本取ってもらえる?」
と言う。夏美は返事もせずにまた体をよじり、ビニールをガサガサと探り、
「はい、ぞうぞ。」
と、言いながらサラミを差し出してくる。
「ありがと。」
と言って、僕はそれを受け取ると、決して事故など起こらないように注意しながらサラミの封を開け、二本目のサラミにかじりつく。口の中に少しスパイスの効いた肉の味が広がる。また三分ほど掛けてサラミを食べきる。僕はもう一度良く考えた後で、
「ねえ、ビール取って貰って良い?」
と言う。その瞬間、助手席から『プシュッ!』っと言う音が聞こえる。ちらりと音の方を確認すると、封の開いた缶ビールを持つ手が見える。僕は、
「夏美、今、なんか音しなかった?」
と遠まわしに質問する。夏美はずっとフロントガラスの先を見つめながら、
「別に。」
と言う。
「なら良いんだけど。」
と僕も静かに返す。夏美がゆっくりと缶ビールを傾け、その中身を喉の奥に流し込む。僕は、
「夏美、何飲んでるの?」
と質問する。
「コーヒー。」
と即答される。
「そっか。俺にもコーヒー取ってくれない?」
と言うと、夏美は左手に持つ缶ビールの中身を溢さないようにしながら体をよじり、右手だけでビニールをガサガサとあさる。そして、
「はいどうぞ。」
と言いながら、僕にサラミを一本差し出してくる。
「ありがとう。」
と言って僕はサラミを受け取ると、ハザードランプを点け、ゆっくりと車を路肩に停める。そして僕は夏美の方をまっすぐに見つめ、
「のど渇くわ!!」
と叫ぶ。一瞬の沈黙の中で、ハザードの『カッチカッチカッチ』と言う音が響く。その後でどちらからともなく二人が大笑いをする。そして僕は、
「しかもビール飲んでるし!俺もほんとは飲みたいの!だけどドライバーだから今日は一日我慢するんだよ!」」
と叫びながらハンドルを叩く。ハンドルを叩いた拍子に誤ってワイパーを動かしてしまう。ワイパーが高速で渇ききったフロントガラスを掃除しだし、マンドラゴラの叫びのような音を立てて無理に動く。それが面白くてまた二人は笑い出す。
「ほらー、ワイパーも悲しくて泣いてるだろ。」
僕のわけの分からない発言に夏美は涙を浮かべて笑う。
「もう、笑ってろ。」
そう言って後部座席からコーヒーを取り出すと一口飲み、通風口にセットされたドリンクホルダーに置くと、再度アクセルを踏み込む。それからしばらくの間、一定時間ごとに夏美はふきだすように笑った。
「ドライバーも大変なんだから。」
と、いつまでも思い出し笑いをする夏美に抗議する。
「ごめん。だって面白いんだもん。」
そう言ってまた吹き出す。
車のフロントに設置されたデジタル時計が九時を示し、いよいよ本格的に日が照ってくると、おもむろに夏美はバックの中をさぐる。そして中から小さなプラスチック容器を取り出し、それを腕に塗りだす。
「もうすぐだよ。なにしてんの?」
「日焼け止め。」
「日焼け止め?今日は日焼けしに来たんでしょ?」
「そうだけど、そのまま焼いたら大変なことになっちゃうから。上手に日焼けするコツよ。」
「ふーん。そんなもんかね。」
「そんなもんなの。」
そう言いながらも丹念に日焼け止めクリームを肌にすりこんでいく。有料道路を走る車が登り坂にさしかかり、エンジン音が一つ高音に切り替わる。登り坂はやや急な右カーブを描き、それとは逆方向に僕らの重心は動く。車体がじっくりと時間を掛けておよそ90度ほど方向転換したところで、左手に海が開ける。
「出たー!海ー!!」
夏美はこらえきれずに声をあげる。ところどころに真っ白な雲を携える水色の空が広がり、それが優しく包み込むように水平線まで青々とした海が続く。手前の砂浜の方では白波が崩れていき、それと戯れる赤い海パン姿の男の子がはしゃいでいる。僕は運転席側から操作し、助手席側の窓を開ける。『ウーン』と音がして、湿った熱風と磯の香りと、潮騒の調べが車内をただよう。こちらに背中を向けたまま夏美が話し出す。
「地球って丸いよねー。」
「そりゃそうだ。」
「そうだけど、海に来る度に実感する。」
「もうすぐだね。海。」
「うん!」
そう言って夏美は姿勢を戻し前を見ると、夏によく耳にする曲を口ずさむ。僕もそれに鼻歌で参加する。車は海岸沿いの道を進む。急カーブが何度か続いて、海水浴客用の店が立ち並ぶ。いたるところで真っ黒に日焼けした白いランニング姿のおじさんが、『P』と書いてあるボードを持って客を呼び込んでいる。夏美はそれをみて、
「うわー、あのおじさん真っ黒。暑いだろうなー。」
と言う。
「一番の稼ぎ時だからね。」
「あのおじさんのところで良いんじゃないの?」
「ああいうおじさんの所は駐車料金が一人1000円くらいするんだよ。車一台でも二人いたら2000円。海の家利用料も含まれてはいるけど、少し先に無料の駐車場があるからそこに停めるよ。そこに停めるために頑張って早起きしたんだから。」
「けちー!」
「けちって言うな!浮いた2000円で夏美のビールを四杯も買えるんだから。」
「うほー。飲み放題ね。」
「四杯だってば。」
僕は夏美の夢をばっさりと切り捨てる。それから五分ほどで目的の駐車場にたどり着く。
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